ある創業者が、十年間続けてきた食料支援プログラムの記録一式を送ってきたことがあります。年次報告書、数十万食に及ぶ提供数、団体の名前を挙げて感謝する家族や地元自治体職員からの手紙。彼女が知りたかったのは、Wikipediaの下書きがなぜ何度も差し戻されるのか、ということでした。
審査した誰も、その活動の価値を疑ってはいませんでした。彼女にとって意外だったのは、疑いがそもそも論点ではなかったということです。基準が引く境界線は、多くの人が予想しないものです。評価に値するかどうかと、独立した情報源からすでに評価を受けているかどうかは、別の話だという境界線です。Wikipediaは、どれだけ善いことをしたかで活動を序列づけません。外部の情報源が自らの判断で何について書いたか、それだけを記録します。
その記録一式は、どれほど誠実なものであっても、団体自身による団体についての語りにすぎませんでした。自分たちで書いた報告書、自分たちが受け取った手紙、自分たちが発行したニュースレター。すべて一次資料です。ページ数がどれほど多くても、数字がどれほど具体的でも、対象から独立した資料は一つもありません。
特筆性とは、対象の重要性や知名度、価値を測るものではなく、対象から独立した情報源からすでに十分な注目を受けているかどうかを測るものです。
独立した注目は、公平にではなく、しかも功績の大きさに比例せずに集まります。一度話題になった募金活動が、一週間で、外部から一度も取材されたことのない十年間の地道で堅実な活動よりも多くの報道を集めることもあります。この差は、どちらがより多くの善いことをしたかとは無関係です。ただ、記者や著者や放送局が、誰に頼まれるでもなく、どちらについて書くと決めたか、それを示しているにすぎません。
私たちが今、依頼者に尋ねているのは、一つではなく二つの別々の問いです。その活動を続ける価値はあるか。ほとんどの場合、答えは間違いなく「はい」であり、そもそもそれは私たちが答えるべき問いではありません。独立した誰かが、すでにそれについて詳しく書いているか。それこそが百科事典が扱える唯一の問いであり、団体自身がまとめた資料の束は、どれほど心を動かすものであっても、その問いには答えません。