ある依頼者から、四十一の脚注がついた草稿が届いたことがあります。添えられたメモには、これだけ丹念に調べましたと書かれていました。数そのものは事実でした。ただ、その脚注のうち三つと、隣り合う文とのあいだには、残念ながら同じくらい確かな隔たりがありました。
一つは、創業年の出典として会社紹介記事を挙げていました。その記事は会社の沿革を一段落で語ってはいましたが、年号にはひとことも触れておらず、日付は記憶から書き足され、脚注は習慣でその近くに置かれただけでした。もう一つは、「業界を代表する企業」という表現の出典として業界誌の記事を挙げていましたが、その記事が使っていたのは「数ある事業者の一つ」という、かなり違う言い回しでした。三つ目は、その後書き換えられたページを指しており、見つけ出したアーカイブ版には、対象について何も書かれていませんでした。
すべての引用、および検証可能性に異議が唱えられた、あるいは唱えられる可能性の高いすべての記述には、その記述を直接裏づける脚注を付さなければならない。
ここで意味を持つ言葉は「直接」です。文末の脚注が答えるのは、そのリンク先に何かが存在するかどうかという、ただ一つの問いにすぎません。査読者が実際に問うているのは、そのリンク先を全文読んだとき、本当にこう書いてあるかどうかです。記事に脚注が四十一あっても、そのうち三つの文が検証に耐えられないということは起こり得ます。脚注の密度は、一度も基準になったことがないからです。
そこで私たちは、脚注の数を数えるのをやめ、すべてを読むようになりました。段落全体でも、話題全般でもなく、その脚注が隣接する、まさにその一文と照らし合わせて読みます。会社の規模を裏づける出典が、自動的に創業年を裏づけるわけではありません。製品について論じる出典が、自動的に市場シェアの主張を裏づけるわけでもありません。査読者も、静かに、予告なく、同じ確認をしています。そこで見つかる不一致は、脚注が一つ抜けている場合よりも、たいてい信用を大きく損ないます。うっかりというより、誰も確かめなかった主張に見えてしまうからです。
対処法は、地味なものです。出典を読み、それから文を読み、何の前提も持たない第三者が見ても同じことを言っていると認めるかどうかを、自らに問うことです。脚注を数えるより時間はかかります。それでも、実際にずっと適用されてきた検証とは、この方法だけです。