ある依頼者の伝記記事は査読を滞りなく通過し、納品されたときのまま三か月間、手つかずで残っていました。そこへ見知らぬ編集者が手を加えました。製品ラインに関する一文を削り、代わりに二文を加えたのです。出典は経済紙で、前年に会社が静かに和解させていた訴訟についてのものでした。依頼者はこれを荒らし行為だと言い、差し戻しとページの保護を私たちに求めてきました。
どちらでもありませんでした。新しく加えられた文には、信頼できる独立した情報源への脚注が付いており、削られた文のほうこそ、査読者が以前に一度指摘していたのと同じ種類の形容詞を使っていました。誰かが自分の判断で、どの記事に対しても、いつでも誰にでも認められていることを行ったにすぎません。記事を事実に照らして読み、手を加えることです。
どれほど詳しい編集者であっても、対象にどれほど近い立場であっても、記事を所有することはできません。ウィキペディアの内容は共同で執筆され、維持されるものであり、誰でもいつでも編集することができます。
これは私たちが説明することの中でも、依頼者を最も驚かせる点の一つです。というのも、それ以外の過程は発注のように感じられるからです。草稿は査読され、承認され、公開され、納品されます。パンフレットと同じように。しかし記事はパンフレットとはまったく違う働き方をします。公開は編集の終わりではなく、編集が私たちの手を離れる瞬間なのです。
ページの保護という仕組みは確かに存在しますが、それは荒らし行為や編集合戦のためのものであり、対象にとって単に気に入らない変更のためのものではありません。出典があり中立的な変更に対して保護を求めれば、そのページへの注目はむしろ高まります。申請を審査する管理者には、争点となった変更が付けていた出典が見えているのです。
公開から三か月後に私たちが問うのは、公開前と同じ問いです。新しく加わった内容は出典があり、中立的に書かれているか。そうであるなら、誠実な答えは差し戻すことではありません。その記事が今や、他のあらゆる記事と同じように百科事典の中で生きていて、対象に何の借りもない、そしてこの件を見る限り私たちを必要ともしなかった人々によって編集されている、と認めることです。